雇用不安の中どう生きるか

派遣切りなどの問題について考えるときは、そもそもの新自由主義の本義について考えるとよい。

新自由主義、つまり経済においては競争原理にすべてゆだねるのを良しとする考え方、これを日本は受け入れてきたことになってる。非常にいびつな形ではあるのだが。

目指すべき社会は何かというと、Jobの意味での仕事の時間と、それ以外の時間を分離することにつきる。

今、社会は競争原理で動いているのだという意識が強すぎるのだ。新自由主義について再確認してほしい。それは経済面での競争、つまりJobなりBusinessなりの領域に限定された競争ゲームが本来の意味だったはずだ。

アメリカは精神的充足という面では全然ましだと思われる。

働く時間が少なく、プライベートの時間を大切にすることができる。NPOに対する活動が奨励されていたり、税制面でも優遇されている。週末には教会へ通うことができる。そしてこうした休息の後、ふたたび経済競争ゲームへと再参戦が可能なのである。

こうした社会的基盤とセットで生きるのが、新自由主義であったはずなのだ。なのにどこで誰がはき違えたのか知らないが、すべて競争でOK、という解釈になってしまった。しかも雇用流動化が一方通行ときてる。

あえて言おう。派遣切り、正社員リストラをする企業には正統性がある。新自由主義導入の時点で、企業は社員の人生を支える責任から大幅に免責されている。問題は企業以外のところが、新自由主義の意味を理解せず、行動を起こさなかったこと、政策を打ち出さなかったことにある。

終身雇用に人生をゆだねる社会に戻すのか、それとも新自由主義を経済以外の社会基盤まで広げていくのか、それが問われている。

天下りや渡りに対する批判が現実のものとなった場合、公務員ですら雇用の流動性が高まるのは自明なわけだが、そういう批判をする人に限って企業の雇用責任を問う!とか言ってたりするのでまた萎えるわけだが。

どうでもいいが、今の日本で生き抜けているのは、サブカルチャーにいる人たちのような気がする。この領域にいる人の生き方は、こうした状況に強い。彼らは日銭を稼ぐ生業をもちながらも、精神面での充足はその会社以外で達成されてい る。かつて彼らは企業体に人生を預けられない、社会性のない人間とされていた者たちであった。しかしその生き方は、人生の主軸を競争外に置くことができる 点で、新自由主義と非常に相性がよいのだ。

でもネット上だけの活動はだめね。セーフティーネットってのは、網。引っかかってじゃまくさい、めんどくさいしがらみを持つことと同じなんだから。