月別アーカイブ: 2009年1月

雇用不安の中どう生きるか

派遣切りなどの問題について考えるときは、そもそもの新自由主義の本義について考えるとよい。

新自由主義、つまり経済においては競争原理にすべてゆだねるのを良しとする考え方、これを日本は受け入れてきたことになってる。非常にいびつな形ではあるのだが。

目指すべき社会は何かというと、Jobの意味での仕事の時間と、それ以外の時間を分離することにつきる。

今、社会は競争原理で動いているのだという意識が強すぎるのだ。新自由主義について再確認してほしい。それは経済面での競争、つまりJobなりBusinessなりの領域に限定された競争ゲームが本来の意味だったはずだ。

アメリカは精神的充足という面では全然ましだと思われる。

働く時間が少なく、プライベートの時間を大切にすることができる。NPOに対する活動が奨励されていたり、税制面でも優遇されている。週末には教会へ通うことができる。そしてこうした休息の後、ふたたび経済競争ゲームへと再参戦が可能なのである。

こうした社会的基盤とセットで生きるのが、新自由主義であったはずなのだ。なのにどこで誰がはき違えたのか知らないが、すべて競争でOK、という解釈になってしまった。しかも雇用流動化が一方通行ときてる。

あえて言おう。派遣切り、正社員リストラをする企業には正統性がある。新自由主義導入の時点で、企業は社員の人生を支える責任から大幅に免責されている。問題は企業以外のところが、新自由主義の意味を理解せず、行動を起こさなかったこと、政策を打ち出さなかったことにある。

終身雇用に人生をゆだねる社会に戻すのか、それとも新自由主義を経済以外の社会基盤まで広げていくのか、それが問われている。

天下りや渡りに対する批判が現実のものとなった場合、公務員ですら雇用の流動性が高まるのは自明なわけだが、そういう批判をする人に限って企業の雇用責任を問う!とか言ってたりするのでまた萎えるわけだが。

どうでもいいが、今の日本で生き抜けているのは、サブカルチャーにいる人たちのような気がする。この領域にいる人の生き方は、こうした状況に強い。彼らは日銭を稼ぐ生業をもちながらも、精神面での充足はその会社以外で達成されてい る。かつて彼らは企業体に人生を預けられない、社会性のない人間とされていた者たちであった。しかしその生き方は、人生の主軸を競争外に置くことができる 点で、新自由主義と非常に相性がよいのだ。

でもネット上だけの活動はだめね。セーフティーネットってのは、網。引っかかってじゃまくさい、めんどくさいしがらみを持つことと同じなんだから。

公共事業は必要か

公共事業の善し悪しについて、わかる範囲で整理しておくことにする。

自分が思うに、(1)マクロ経済、(2)インフラ、(3)象徴、の側面で整理する必要があると思う。

まず(1)マクロ経済面での評価について考えておこう。

ニューディール政策・・・成功したことになってる。公共事業が景気対策になるという神話を裏付けている。実際は違うのではないかとも言われているが、イメージとしては成功側。

近年の日本の公共事業・・・失敗とそれに伴う縮小。これが今の不況の対策として公共事業だ!と叫ぶ人が少ない理由。

この2つの差異はどこにあるのか。ニューケインジアンに言わせると、為替が変動相場制になったのが効果の差を生んだのだという。細かい理屈は高橋洋一氏の本でも読めばいいと思うが、要するに公共投資すると、投資された業界は潤うが、国単位で見ると海外に金が流れるだけになるということは頭に入れておこう。不況に仰いでいる先進国が、なぜ公共投資をしない様を見れても、その理論を正しいと考えていることはわかる。

つぎに(2)インフラについて。

要するに公共投資は海外に金をばらまく間抜けな行為だ。しかだからといって公共投資は全部悪だ、やめちまえ、というわけにはいかない。

インフラへの投資は必須である。ネットのインフラ事業者をフォローする必要性はもっと叫ばれて良いと思う。また道路もインフラであるので基本的には賛成である。しかし、道路は重要!とだけ唱えて、実際に行う事業はインフラの意味ではなく、どうでもいい景観重視だったりする。役所の景観の感覚に問題があるのがそもそもの問題だと思うが、いずれにしても優先順位としては後回しでよいはずだ。

あとは(3)象徴だ。

公共投資のもつ、象徴への投資という意味合いも重要である。こうした厳しい状況において、人が生きぬくためには、人の意識を動かす、なんらかの象徴が必要になる。かつての大戦はそうであっただろうし、オリンピックの特需などもそうだ。銅像や胸像などもこのたぐい。人々が何に対して希望を抱くか、守りの姿勢を軟化させ、外に働きかけようとするか、そこの見極めが重要になる。

個人としての感覚では、EXPO85で乗ったリニアモーターカーが未だに走っていないのが不思議なので、そういうのに投資してほしいと感じるが、まあその辺は人によるだろうけど。

とにかく間違いないのは、公共投資は、選択的、限定的に行う必要があるということ。やり過ぎると、単なる垂れ流しになってしまう。これはアメリカも同様で、オバマの経済対策も同じ方向性だと思う。

青臭い目標設定をしよう

数年単位でたてるような目標は、抽象的で、非現実的な方が良い。

よく、今の自分の現実より少し上の目標を建てろとか、あるいは目標を細かくブレイクダウンして、小さいことを積み上げろとか言うけど、それは限定的な状況でのみ有効であると思った方がいい。

少し前に流行った[dic:GTD]という仕事管理手法の体系がある。要するに気になる物事を全部書き出すことで、心のもやもや感を解消しつつ、具体的な行動として分割して処理していくというのがその大体の流れ。実際自分も2年近くこの方法は使っていて、やってみる価値はあるとも感じている。

しかしながら、これと同じようなノリで、数年単位の目標をたててしまうと、後に間違いなく罠にはまる。

なぜか。

まず、仮に正社員になって安定した家庭を築くという目標をたてたとしよう。数年後、それが叶ってしまったらどうか。実はそこには虚無感が待ちかまえているだけだったりする。これは慣れや飽きというレベルの話ではなく、自分の成長機会を失うことを意味し、人生の密度を下げる。また、目標をかなえられそうもない状況になったらどうか。実際、この程度の目標をかなえる人間など腐るほど居るわけだし、それに引き替え自分は…という思考に陥る。つまり、頑張れば叶いそうなレベルの目標は、結果的に自分の人生にとってマイナスにしか働かない。

長期的目標は、抽象的で、達成がほぼ不可能で、空虚な理想論であるほどよい。

たとえば、差別をなくすとか、貧困をなくすとか、そういうぱっと見引いてしまうようなものを、恥ずかし気もなく本気で望むのが良い。もしそれが嫌なら、総理大臣になって権力を握るとか、ロックフェラー家を超える金持ちになるとか、そいういう下世話なものでもかまわない。こうした目標であれば、それを達成しない限り、自らの駆動する力が潰えることはない。

つまるところ、目標とは、その設定した事象そのものを実現するために設定するケースと、自分自身に継続的変革を与えるために設定するケースがあるということだ。

もし学生であったら、目の前の受験のために具体的目標をブレイクダウンしていき着実にこなしていくことは必要だろう。しかし、受験合格やそれを足場とした職業以上の、謂わば青臭い目標のようなものは頑なに固持するよう心がけた方がよい。それがあれば、何が起きようとこの世の中をサバイブしていけるからだ。

夢を大切に、とか、大志を抱け、とか、大抵は現状維持に必死なおっさんが昔を懐かしんでいるだけなので萎えてしまうのはわかるが、だからといって、その格言に価値がないわけでは決して無いのだ。

あと、誤解を招かぬよう付け加えておくと、理想論を他人に押しつけることだけはやめよう。それは自分を奮い立たせるためのものであって、自分を正当化するためのものではないのだから。